一、            「統治されたい」技法

――トロール船をめぐる水産界と帝国海軍の協力構築(19121931

京都大学 黄望舒

 トロール船は海底生物を曳網で捕獲する動力船で、二〇世紀初頭に日本に導入された。当初は漁獲力の強さから伝統漁業や海底ケーブル、海洋環境への脅威と見なされ、帝国海軍により厳しく規制されたが、第一次世界大戦期には作戦能力が重視され、水産業者も鮮魚供給や遠洋搬送を通じ軍との協力を模索した。戦後にはトロール船が予備艦艇、軍が漁業の護衛を担い、両者は帝国の拡張に向けて連携を深めた。

 本報告はトロール漁業者が抑圧対象から海軍の協力者へと転じた要因を明らかにする。近代東アジア海域の海洋史の視座から、貿易中心の先行研究を補完し、海洋資源の開発とその政治性に注目する。

 結論として、漁業者は一見国家に利用された存在であるが、協働を通じて帝国の海洋支配の形成に関与しており、統治は上意下達ではなく国家と社会の相互構築として現れた。本研究は戦時動員における国家と社会の関係、および海洋の歴史的役割の再考に資するものである。

 

 

二、1920年代中国の「反キリスト教運動」におけるカトリック教育の変容

――カトリック性とナショナリズムの交差点

広島大学 徐茂嘉

反キリスト教運動は、1920年代中国でナショナリズムと反帝国主義の高まりの中、キリスト教を「帝国主義の文化侵略」と見なして排斥した社会運動である。その挑戦に対応するために、19世紀後半以降ナショナリズムとの関係を急速に転換したカトリック教会が、1920年代中国のナショナリズム高揚期に教育分野で適応戦略を採用した。

本稿は同時代の新聞・雑誌を中心とする資料を再検証し、輔仁大学設立に象徴される教育制度の「中国化」、カリキュラムの世俗化等という複合的転換を追跡する。さらに、調和者であるコスタンティーニ、教会の現地化を推進したレッブ、ナショナリズムに慎重だった徐宗澤、そして青年党など教会外の勢力との教育論争を分析し、普遍主義とナショナリズムの境界を教会がいかに設定し動機づけたかを明らかにする。

 

 

三、「瘋人」から「精神病」へ

――1930年代北平市精神病療養院をめぐる魏毓麟らの言説分析を中心に

京都大学 播磨美有

伝統中国では精神病患者は長らく「瘋人」「癲狂」と呼び、患者個人に原因が求められ、社会から排除・隔離されてきた。しかし民国22年に成立した「北平市精神病療養院」院長魏毓麟や宋思明らの言説を分析すると、彼らが医学的見地から新たな精神病認識を有していたことが判明する。まず精神病は患者個人ではなく家庭や学校、社会など中国社会全体に関わる病であると提唱された。精神病は予防しうるもので、幼少期における家庭と学校の緊密な協力が求められた。次に精神病は詳細に分類された上で治療可能とされた。そこで導入された「精神病社会工作」は、科学的方法で精神病の原因を解明し、患者の社会的問題を解決することで予防・治療から退院後までを支援するものであった。最終的には精神病者の中には豊かな創造力を持ち、偉大な成果を生み出すことがあるとされた。こうして封建的属性を有する「瘋人」は近代精神医学の下で「精神病」へと転換されていった。

 

 

四、1950年代中国における内蒙古史叙述の一断面

――余元盦『内蒙古歴史概要』読後覚え書き

広島大学 哈木格図(ハムゴト)

本報告は、1958年に刊行された余元盦『内蒙古歴史概要』の編纂経緯と叙述構成に注目し、1950年代中国における「内モンゴル史」の制度的語り直しの一断面を検討する。とりわけ本書が、哈豐阿(ハーフンガー、19081970)の提案により1951年に編纂が開始され、モンゴル人民共和国の通史的形式を踏襲して構成された経緯は、自治区初期における歴史叙述の政治的文脈を映し出すものといえる。本報告では、1920年代の内モンゴル人民革命党の運動がいかに中共の革命史観に接合され、「正統な過去」として語り直されたかを分析しつつ、哈豐阿の叙述構想に内在した政治的意図を明らかにする。予備的考察として、「語りの構造」としての歴史を検討する視角を提示したい。

 

 

五、唐の高祖李淵と馬不足

龍谷大学 旗手瞳

唐を建国した李淵の出自は、鮮卑族であると考えられおり、父方・母方ともに祖父は北魏末、武川鎮で軍人を務めていた。李淵自身、馬を愛好し、また弓射に優れていたというエピソードを持ち、遊牧的な尚武の気風を色濃く残していた。しかし、『大唐創業起居注』を読むと、太原で挙兵するにあたり、彼とその軍団は意外にも、馬不足に悩まされていたことが判明する。なぜ、軍馬が足りないという事態に陥ってしまったのか。報告者は、隋以前の華北における軍馬供給のあり方に注目し、さらに隋末唐初において、東突厥の可汗や王族たちの牙帳が陰山やそれに南接する地域に存在した点もふまえ、考察を行う。

 

 

六、『宋史』姦臣伝考

 ――執筆の意図と記された「姦臣」像――

大阪公立大学 里和麟太郎

近年、中国史の分野では「文本考古学」や「史源学」といった編纂史料の史料源の再検討を行なう研究が注目されている。報告者は南宋の専権宰相に関する言説が『宋史』姦臣伝へどのように繋がっていくのかという問題について考察するため、秦檜、韓侂胄、賈似道に関する言説を軸に検討を行ってきた。その結果、南宋においてはそれぞれの時期において言説の傾向が変化し、情報の取捨選択が行なわれ、『宋史』姦臣伝の編纂へと繋がっていく傾向が看取される。本報告では、『宋史』姦臣伝全体に対する検討を行なう。『宋史』姦臣伝の序文を軸に、『遼史』姦臣伝の序文などを用いて『宋史』姦臣伝編纂の意図を考察する。そして姦臣伝全体の記述を分析して『宋史』における姦臣像がどのようなものであったかを検証し、姦臣伝の人物選定の基準を明らかとする。更に、『宋史』の描く姦臣像と宋人の姦臣像の違いに着目し、『宋史』姦臣伝編纂に至るまでの過程を考察する。

 

 

七、近世ベトナム中部における私田の所有状況に関する基礎的考察

広島大学 上田新也

前近代ベトナムの田土は概ね国有田である「公田」と個人所有の「私田」に分類される。本報告で検討するベトナム中部・フエ周辺域は、公田の割合が高い地域とされており、これらの公田が各集落の有力氏族により「私物化」されていった過程については、既にある程度解明が進んでいる。一方で、私田においてどの程度の土地蓄積が行われていたのか、いなかったのかといった問題は未解明のままである。そこで本報告では、①主として阮朝期の地籍関連史料の検討を通じてフエ周辺域の村落における私田の土地蓄積状況を中心に概要を明らかにしたい。さらに②現地で収集した村落文書を加味して検討することを通じて、当時の私田所有形態の特徴、そこから推測される家族形態、耕作形態などについて若干の私見と今後の展望について述べたい。

 

 

八、近代ベトナムと万国博覧会:1889年パリ万博と阮朝の遣欧使節を中心に

大阪大学 多賀良寛

一般にエッフェル塔の建造で知られる1889年のパリ万博は、植民地に関する多数のパヴィリオンを擁する、帝国主義の一大ショーケースでもあった。1880年代に全土がフランスの植民地となったベトナムは、この万博で植民地展示の重要な要素を構成する。アンヴァリッドの会場には、トンキン・アンナン・コーチシナ三地方のパヴィリオンが設けられるとともに、ハノイの職人街を再現した「トンキン村」や、ベトナムの伝統演劇を上演する「アンナン劇場」が出現した。当時フランスの保護国であった阮朝は、皇族の綿𡩀を正使とする遣欧使節をこの万博に派遣している。この使節には、通訳として南部ベトナムのジャーナリストであるチュオン・ミン・キーも参加した。彼等が残した諸記録(『己丑西行日記』および『諸国賽会』)は、万博に対するベトナム人の視線を知る上で、貴重な資料である。